いつかきっとがもう間近

ありのままの生活と夢の中

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こがねいろ

法話を耳にする機会が最近、何度かありました。

 

七回忌までの法話の時間は、故人の在りし日の姿を思い浮かべることに熱中するあまり、ご住職のありがたい話の内容が、頭の中に入ってこないことがほとんどでした。

 

けれど十三回忌にもなると、故人が残してくれた縁のある人とともに、同じ時間を過ごせることを実はとても楽しみにしていました。それだけに、今回のご住職のお話は、スッと耳から体に入ってきました。

 

理解したつもりが勘違いしている箇所もあるでしょうが、こんな内容でした。

 

阿弥陀如来様を祀ってあるコノ仏壇の色は、黄金(こがね)色です。仏様の世界は、このように、きらびやかで豪華な世界、美しい世界というイメージを持っている人が多いでしょう。

 

それは少しちがいます。現実の世界では、好きな有名人や憧れのスターを目にすると、輝いて見えることがあります。自分にとって良い人は輝いてみえるのに、逆に嫌いな人や苦手な人を目にすると、色あせてみえます。ましてや輝いては見えることはありません。人は誰しも、そんな節があります。

 

けれども、仏様は、有名人やスターに限らず全ての人に対して、そのひとつひとつの命を黄金の光で照らしてくださっています。つまらないダメな命はこの世に一つもなく、皆同じ価値のある大切な命だと教えてくださいます。

 

仏様のように、誰をも同じように尊ぶことは難しいことですが、そうできるように努力することは出来ると思います」

 

そうなんですよね、頭ではわかっているのです。誰に対しても親切にしたいし、話をきいてあげたいし、大事にしたいとも思いますが、実際の話、身近な人にこそ、厳しい目を向けてしまいます。

 

私はここまでしているし、考えているのよ。だから、あなたもここまでして、もっとよく考えてほしいわ、と、対等に渡り合ってしまいます。無条件に愛せる人と、条件つきでも愛せない人がいることを自覚しているので、私にとっては苦い法話でした。

 

ごく小さな内輪だけの法事でした。ご住職のお斎は御膳料としてお渡しする算段になっていたので、とても気楽にお昼を準備できました。

 

集まったのは、幼児を入れても10名に手が届きません。平均年齢にすると、喜ばしいことに、35歳です。計算上の平均年齢とは、どんなに実態とかけ離れているものでしょうか。

 

それはともかく、老若ともに集った少人数の法事でしたので、精進料理はやめにして、『行楽弁当』にしました。豪華なお花見弁当を囲んで、美味しいねと言いながら時間は過ぎて行きました。

 

ただ、黄金色の解釈が今ひとつ、まだ腑に落ちていません。またいづれかの機会にお教えいただきましょう。

春の日

「春」の休日を満喫するために、郊外に出かけました。春霞で遠くの見通しは悪かったのですが、たくさんの花と緑を楽しみました。

 

まだソメイヨシノは咲いていませんでしたが、変わった品種の桜を見ることができました。その桜は直径5cmくらいの大輪でした。あまりにも形が整いすぎているために、はじめは造花だと勘違いして、素通りしたほどです。奇跡の桜でした。

 

コノサクラ、キレイスギナイ? と思わず声を掛けました。

 

ナンノコト? と聞き返されました。

 

仕方ないことなのもしれません。同じ時間に同じ場所で同じ桜を見ても、魚と鳥くらいの感受性の落差がありますが、誰が悪いわけでもありません。同調してもらうことを望む方が無謀なことなのかもしれません。

 

深海魚もどきの人間め。

 

それでも、ようやく春になりましたね。

今年も卒業シーズン

息子が中学を卒業した時のことは、前に書いたことがある。成長した喜びとともに、親の手を振りほどいて、背を向けていく息子を静かに見守った卒業式の日だった。

 

高校の卒業式は、息子には黙って見に行った。式典が終わり、保護者たちも我が子のいる教室に移動した。顔見知りのお母さんたちにお会いできて、私も臆せずに教室を覗くことができた。

 

何年も家では見たことのない息子のはじけた笑顔に、私は心底、救われたような気がした。家では言葉を失ったように、何を話しかけても反応のなかった息子にも、のびのびと羽を伸ばして笑える場所があったこと、それがとても嬉しかった。

 

それから4年。家を出てから盆と正月の年2回しか、家に顔を出さなかった息子が大学を卒業する。小学校の入学式の時、「これから長い学校生活が始まるのだから」といって夫も出席したことを思い出した。

 

長い子育ても、終わった。長い学校生活の終わりには、父親に見届けてもらおう。それを息子に伝えると、「わかった、ありがとう」と言ったのだ。後は、幸多かれと祈るのみだ。

 

そわそわどきどき

私はもともと小心ものですが、年齢とともに、「心臓に毛が生えている」ような人に見えることを大人の貫禄と見做し、うろたえたり動じたりすることを恥だと思っている節があります。

 

少々のことでは、そわそわすることは、ありません。どきどきすることもありません。

 

いつもみているテレビドラマの後は、キュートな猫たちが主役の番組のはずでした。それがここ数日、始発電車に乗る人に「なぜ、あなたは始発に乗るのですか?」と質問を投げかけて、その土地やさまざまな人間模様を描き出すドキュメンタリー番組に変わっていました。

 

夜が明けていない真っ暗な駅の構内に、その時刻がくると、次々に照明が点灯しだして、始発電車の準備がはじまります。入口は施錠されていて、まだ乗客は一人も待ってはいません。

 

駅の近所に住む人が、入口の近くを通りかかります。インタビュアーはすかさず、何をされているのですか?と声をかけ、情報収集に余念がありません。

 

開錠時間になれば、乗客は、ポツリポツリと現れはじめ、始発時刻が近づくにつれて増えてきます。インタビュアーやカメラマンが何人もいるのでしょう、その人々の映像も映りこんでいました。

 

「なぜ、あなたは始発に乗るのですか?」「仕事は何をしていますか?」「具体的にどんな仕事ですか?」「どこに旅行にいくのですか?」「どうして其処にいくのですか?」

 

その番組をテレビの前で鎮座して、見ていました。ただ、ボーッと見ていただけなのです。なのに、頭の中では叫んでいました。「早く電車に乗らせてあげて」「関係ないじゃないの、一人にしてあげて」とか、「乗り遅れたらどうするのよ、そんなくだらない質問して、その人の1日の始まりを台無しにしないで」とか。

 

そわそわどきどきしながら、そしてインタビューされている人が怒り出さないかと、ヒヤヒヤしながら見ていました。でも乗客の皆さん、貫禄のある大人です。冷静に対応されていました。

 

特定の場所に72時間、カメラを構えて、そこを行き来する人々をインタビューするドキュメンタリー番組があります。それと、始発電車に焦点をあてているこの番組は、共通点はあります。でも、前者は私にとって興味深く好きな番組なのですが、後者はどうもいただけません。

 

始発電車に今まさに乗り込もうとする人をつかまえて、「なぜ、あなたは始発に乗るのですか?」という質問をわざわざする必要がどこにあるのでしょう。そんな質問、朝一番にしなくてもいいでしょ? そして、知ったところでどうするのかしら? 何を導き出したいのかしら?

 

そして、その番組を見ているテレビの前の人々に、どう思ってほしいのかしら。そわそわどきどき、してほしいのかしら。

 

ちなみに、私の答えです。「始発電車に乗るときは、静かな時間をすごしたいから」「誰にも邪魔されたくないから」「一人でいたいから」「余裕を持って、1日をはじめたいから」

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