クレプトマニアという言葉を聞いた。意味は窃盗症、物を盗みたいという衝動をコントロールできない依存性だという。
そういえば、昔々、ずっと昔、そんな人がいた。その人は近所のA君のお母さんだった。
A君と私は、同い年ということ以外には、接点はまったくなかった。同じ小学校に通っていたはずなのに、同じクラスになったことはなく、廊下ですれ違うこともなかった。無論、意識していたわけではないので、知らないうちに、すれ違っていたことはあるのかもしれない。
A君のお母さんは、親たちの間では、美人な奥さんだと子どもの耳に入ってくるくらいに有名だった。子どもの目から見ても、自分の母親やBちゃんのお母さんやCちゃんのお母さんとは、別格だった。
肌の白さ、体の肉付きの薄さ、赤い唇、スリムなワンピース姿、白いハイヒール。顔の造作など、詳細は記憶にないのだが、ひざ下からの足の長さと白さが、他のお母さんと一線を画していた。
いつだっただろう、A君のお母さんが、土の上に隠し文字を掘ってひとり遊びをしていた私の側にきて、「これ、あげる」と小さな白い紙袋を渡してくれた。中には、金属のイヤリングや指輪が無造作に入っていた。「きれい」と思わず口について出た言葉に、「女の子だから、こんなの、好きでしょ?」と囁やかれた。
当時は、石鹸の匂いがついた紙や消しゴムが、クラスメートの中で流行っていた。そんな子どもの私がイヤリングや指輪をもらっても、ちっとも嬉しくはなかった。それからの記憶はないのだが、たぶん、その白い紙袋ごと、母親に手渡したのだと思う。
アノヒトハ、テグセガワルイノヨ、ビョウキナノヨ、ミタラドウシテモ、ヌスンデシマウミタイヨ、マチニイクタビニ、ケイサツニツカマッテイルソウヨ。ゴシュジンガ、オキノドクダワ。
その晩か翌晩かに、そんな内容の大人の会話を耳にした。それから間もなく、A君一家は引越していったらしい。偶然、耳にした『クレプトマニア』という響きが、何十年も前の記憶を呼び起こしてくれた。しあわせに暮らしているだろうか。